自分のニーズが自分でわからない


感情の取り扱い事例
どう生きたい?に答えられない50を過ぎた男

受講生はいつも人の言葉に右往左往していた。
自分はAと思っているのに、Bだと言われると何も反論できなくなる。「でも…」と思いながら、反射的に人と自分を調整してしまう。どんなに正しいと思っていても、強い自己主張ができない。

彼が育った家庭では、家族の中の調整役が受講生の役割だった。

そもそも、親が間違っているとか、親の行為は正しくないといった発想は子どもにはない。例え、そう思ったとしても上手に伝える言葉も持っていない。子どもは自分が間違っていて、自分が悪いんだという解釈をしてしまうことが多い。ましてや、自分のやったことで親が喧嘩を始めたら、自分を責めるしかない。

これは何も児童虐待(身体的虐待、精神的虐待、性的虐待、ネグレクト)といったことには限定されない。日常の些細なこと、大人になった私たちが考えれば十分に理解できることでも、家族が世界の全てだった子どもの時期からすれば、親の機嫌の良し悪しにさえ左右されるふわふわな心がある。気分の良し悪しでもそうなのに、深刻な問題を抱えた家庭であればより深く刻まれることとなる。もちろん、その子の素地も大きく影響する。些細な音にも敏感に目覚めてしまう子もいれば、大きな音の中でもスヤスヤ眠れる子もいるのだから、解釈に差もある。

ただ、自分の価値を育てていくはずの時期に、自分はダメだ、愛されない、といった間違った自己概念を持ってしまったら「自分に価値がない」と自分に言い聞かせることと同じになる。それは自己否定感と恐れを作り出す

受講生を見ていると、50を過ぎた良い年齢の男性なのにとても弱々しく感じる。周りと自分を調整をしなければ!といった思いが見え隠れする。受講生にとって、周りの人と意見が違うことはとても危険で、強い恐れを感じている。幼少期、恐れに対して成功した反応が「調整」で、「調整」すれば身の安全が確保されたのだろう。その反応を大人になってもやり続けていた。いや、それ以外の対応を学んでいないと言ったほうが正しい。
受講生を支えてくれているものがあまりにも脆弱なことがわかる。受講生はもっと自分を知る学びを深める必要があり、同時に自分を支える自分を育てなければならない

私には確認しておく必要があった。
・どういう生き方をしたいですか?
・どういう家族になりたいですか?
・自分がどうなりたいですか?

世間一般で言われるような答えを口にするものの、受講生は明確には答えられなかった。ゴールセッティングが不十分なのだ。曖昧さが問題で、問題をしっかり見ない悪い癖がある。

例えば、自分が本当にやりたいことを主張して、周りから反対されるようなことがあれば、周りを変えさせるぐらいのパワーが必要だ。しかし受講生は教育的機能や交渉力が欠落している。よって、自分が翻弄されてしまっている。

私の講座を通して、自分を変えていきたいですか?
の質問には明確にうなづいた。ただ、中途半端なままでは進められない。

覚悟がいりますが、覚悟はできますか?

受講生は大きくうなづいた。
これから、事実を見るという直面化する覚悟が必要になる。臭いもの、嫌なもの、見たくないものに蓋をしたままでは、蓋をしていることそのものに大きくエネルギーを奪われてしまって、自分の人生にエネルギー全開になれない。ただ、見たくないものを見るというのは痛みを伴う。だから、覚悟がいる。しかし覚悟をしてしまえば、痛みは過去のものだとはっきりする。「調整」以外の対応を選べるようになる。自分の人生を自ら選択しているという感覚を強く感じることができる。

トラブルは私たちに今、向き合うべき課題を見せてくれる。だって、痛みを伴うことは誰だってやりたくない。できることなら痛みを避けて通りたいと思っている。だから、トラブルでもなければ大切な課題に直面化しない。チャンスなんだよ。本当のチャンスはピンチの顔してやってくるんだ。