感情の取り扱い事例
そりゃ、嫌われるよ。
人に嫌われるような印象は全く感じられない賢くて可愛いい受講生。
なのに、
✔︎仕事を抱えすぎてしまうのも、
✔︎会議で発言しないのも、
✔︎おしゃれをしないのも、
✔︎友達やパートナーを作らないことも、
根っこに「私はいずれ嫌われる」があると言う。
先ほどの例で言えば、こういう理由らしい。
✔︎仕事を抱えすぎてしまうのは、人から嫌われる、友達がいない私が仕事をするしかない。
✔︎嫌われる私が会議で発言しても人を不快にさせるだけだから、発言しない方がいい。
✔︎嫌われる私がおしゃれをしても仕方ない。
✔︎そもそも嫌われる私に友達やパートナーができるわけがない。
とても違和感を覚える。全て言い訳に聞こえてしまうのは私だけだろうか。「私はいずれ嫌われる」を盾にしてチャレンジを避けている。そんな卑怯なやり方をするならそりゃ、嫌われるよ。
そもそも、好かれる嫌われるは曖昧だ。
望むものを先に手に入れている人を見て嫉妬すれば、その人のことを嫌いだと思う場合だってある。そういった時は、嫌われた人(嫉妬された人)は嫌われるような行為をやっているのが嫌われた原因ではなく、嫉妬している人の問題だ。
自分が応援しているチームを負かした相手チームを嫌いになる場合だってある。この場合の嫌いは応援しているチームが好きすぎるからであって、相手を嫌うことが好きなチームへの忠誠心といった誤解をしている場合だってある。
嫌われたくないといった思いが強すぎるばかりに、嫌われないように意識しすぎて、人間関係がぎこちなくなる場合だってある。歩くことを意識してみてほしい。考えなければ自然とできることも、左足が前に出た時は右手が前に…と考え始めると歩けなくなってしまう。
それに、私たちはもう子どもじゃない。好き嫌いをあからさまに態度にしないし、好き嫌いをそれほど重要視もしていない。それ以上に大切なものがあり、好き嫌いにそんなに構えないと言ってもいいかもしれない。
と考えると、「私はいずれ嫌われる」といったことを考えていること自体、好かれるか嫌われるかをとても大切にしているのは受講生の方で、なぜ大切にしているかというと、そのことで自分の価値を図っている可能性がある。
他者から好かれるか嫌われるかといった曖昧で、他者の主観的なものさしで自分の価値を図ろうとしているなら、それはあなたの己の脆弱さを示している。別の方向から見れば、人生をしのいできた工夫のひとつとも言える。
なぜなら、『私はいずれ嫌われる』といった思い込みにはプラスの効用があるから。『どうせ、いつか嫌われる』と思っていれば、嫌われたとしてもショックは少なくて済む。嫌われることはわかっていたと自分に言い聞かせることもできる。孤独に深い悲しみも覚えないだろうし、一人になることを率先してできる。好かれるはずがない私が目立たないように生きようとなれば、おしゃれをする必要も、自分を磨く必要もない。軽はずみにおしゃれや自分磨きをやって、出来ない自分に直面することもない。
ただ、『私はいずれ嫌われる』といった自己概念を持っていると、その概念にフィットする行為を選択するので、好かれる工夫をしない。どう伝えれば嫌われないか⁈を考えたり、試したりする労力をカットできる。何をやっても嫌われるはずだと思っていれば、自分の対人スキルを鍛錬する必要もない。
そう考えるとどうせ私は嫌われてしまうからと考えれば、さまざまな努力をせずに済む。ずるくないか⁈自分は嫌われると言えば、さも自己責任のように聞こえるが、それはただの自己憐憫で、全て周りの人のせいにして逃げてるだけじゃないか。
「嫌われても私はやりたいことをする」と、「どうせ嫌われる」はずいぶん違う。前者は人生への積極的な姿勢を表していて覚悟のことを言っているが、後者は消極的で流されている。
受講生は苦い顔をした。いつも素直な受講生なのに「でも…」と受け入れられない様子。加えて、「ゆかり先生だって、仕事だから私と付き合っているんじゃないか…と疑ってしまう」と。
はぁぁ???
ふーっ。大きく深呼吸して私は尋ねた。
私があなたと付き合っているのは、仕事だから仕方ないといった風に見えるのね?
ーつづくー