理解はしたが、やりたくない。


感情の取り扱い事例
羨ましいと妬ましいの違いは?

私たちは生まれた環境に適応するように自分を作っていく
例えば、長子であれば、次子が生まれれば、お姉ちゃんやお兄ちゃん的役割を担う。例えば、末っ子であれば、末っ子の愛らしさを発揮するかもしれない。商売をしている家に生まれれば、子どもの頃から見よう見まねでお客さんを相手に話をしたりするだろうし、教師の子どもとなれば、間違ってはいけないと常に意識せざる得ないケースもあるだろう。いずれにせよ、生まれた環境で生き延びれるよう役割を熟そうとすることによってトレーニングされる自分がある。家庭でトレーニングした役割は家庭の中だけに留まらず、学校や友人関係などでも発揮され、それが世間でも受け入れられるものとなると強化されていく。

つまり皆、生まれた環境に適応するように工夫して作った自分を生きているということだ。

ある年齢になると、この環境適応的に作った自己とは違う、生まれ持った気質というか、本体の自分が頭を持ち上げてくる。大概、トラブルや病気だったり、生きづらさといった感覚を得ることに始まるケースが多い。その生きづらさの感覚をきっかけに環境適応的に作ってきた自分と本体の自分の統合が始まる。私たちはたくさんの自分を持っている余すことなく自分を発揮するためにそういう時期が人生に仕組まれてると考えると、ある意味、健康度が高いとも言える。

4ness コーピングセミナーの受講生はそんな状況に至ったタイミングで受講する人が多い。出来事やトラブル、病気などをきっかけに様々な角度から、環境適応的に作った自分という無意識の思い込みを意識化してゆく。

成熟にはふた方向からのアプローチがあり、その双方向からアプローチをすると成熟は加速する。ひとつは心からのアプローチで、無意識に思い込んでいる自分を意識化させること。もうひとつは型。行動してみることだ。『アイデアには価値がない。行動にこそ価値がある。』と多くの優秀な経営者が言っているが、それと同様で、頭でわかっても腹落ちしなければ人は変わらない知っていることと出来ることは違うんだ。腹落ちするためには実験してみる必要があり、実験してみた経験を検証するといった実験と検証を繰り返しつつ、自分の心の動きや起こる事実をよく観察するしかない

歪んだ認知は、気づけば8割がた緩んでしまうものだが、仕上げとしてこの実験、実践が大切になる。しかし、実験してみることに受講生が全くの抵抗がないわけではない。多くの受講生が二の足を踏む。初めてやってみることだから抵抗は当然なのだけど、どうもその理由は「不慣れだから」だけではなさそうだ。

今回の受講生は男女ストレスマネジメントセミナーで、「男性に依頼する」ということに強い抵抗を示した。周りの女子たちが自分でやれることを男性に頼んでいるのを見て、「えーっ?!自分でやれるじゃん!ズルい!」という思いを持っていたからだ。あんなズルい女達と同じことをやるなんて…。

自分でやれることなのにいつも誰かに頼んでやってもらうズルさが見えていたということは、その受講生の中に依頼したい思いがあったことを証明する。何故なら、自分の中にないものは見えないから。「依頼したいけど、自分でやれることは自分でやらなければ!」と思って頑張ってきたのだろう。しかし実験において「自分の中に思いはあった」が「やりたくない」となると、この抵抗は少し種類が違うということになる。

講座中、こういうことはちょくちょくある。頭ではやってみる価値があるとわかっていても、今まで否定的に見てきた行動ゆえ自分はやりたくないといったケースだ。気持ちはわかる。しかし、やってみないことには進まない。現状を変えたいと思えば、何かを変えなければならない

優秀な受講生は自分の心の中を探り、「尊敬している女性の先輩がお願いしてるのを見てもなんとも思わないけど、そのほかの女子がやってると嫌だ」と言ってくれた。ほう!ということは、同じ行為でも、やる人によって変わるということね。つまり、おっしゃっているのは、妬みと羨みの違いだね。

「うらやましい」には、どうも「妬み」と「羨み」がある。その違いは一体なんだろう?同じ行為や成果を見て、羨ましいなぁ!と思ったり、嫌だなぁと妬んだりするのは何が違うのか?!「妬みと羨みの違いは何?」との私の質問に、素直で力がある受講生は「好きか嫌いか」と答えた。その通り!

好きな人が成した功績か、嫌いな人が成した功績かで、私たちは素直に羨ましい!と思ったり、妬ましいと嫌悪したりする

おかしくないか?

そもそも、「私もそうありたい!」「自分もそうなりたい」といった思いがあることに変わりはない。羨ましいのだ。だから見えている。興味がなければ心は動かないのだから、心が動いていること自体、興味があることを示しているのに、反応は真逆となる

それどころか、妬みはその行為自体を否定する心から願っているのに嫌いな人が先にやったばっかりに自分はしないことを決める。これでは、自分の意思の主導権を嫌いな人に渡しているようなものだ。もったいない。嫌いな人のために自分の可能性を狭めるなんて

賢く、勇気ある受講生は納得までいかない様子だったものの、実験してみることを了解してくれた。約束は必ず守ってくれる受講生だ。次に会うときは何らかのギフトを得ているはずだ。彼女の可能性は必ず広がる。

こういった葛藤は多くの受講生の心のうちに起こっている。せっかくのチャンスを嫌いな人のために棒にふる選択をするのはもったいなさすぎる。嫌な奴と一生付き合うわけでもないのに。

「Aさん(嫌いな人や好きな人)がこうしたから、私はこう!」といった決断が悪いことばかりとは言わない。それが良いケースもある。しかし、自分が望んでいることに素直になることを阻止するような、アンチ嫌いな人の生き方はまるで嫌いな人を自分の人生の軸にそえて自分の人生を選択しているようなものあなたの人生をより豊かにする選択とは思えない。自分の人生は自分で決めるんだ。

やってみたけどやっぱり嫌だとわかれば、やめればいい。しかし、やったことがない人にジャッジはできないはずだ。想像してみることと実践したことには大きな開きがあるから。取り急ぎ、小さくやってみよう!やってみなくちゃわからない。やってみた後に一緒に考えよう!