感情の取り扱い事例
万人に優しくは正解?
受講生は怒りに振り回されていた。
受講生のお父さんは牧師さん。幼い頃から、どんな人にも優しく!と正しい教育を受けて育った。それが決して嫌だったわけではなく、素晴らしい生き方だと感動さえ覚えていたし、自分もそう生きたいと強く感じていたという。
しかし、そんな受講生はいつも怒りを抱えていた。常識を外れた行為をしてきた人にも優しく接したのに、恩を仇で返されるようなことをされて、そのことがどうしても頭から離れない。「なぜ、あんな態度をされないといけないんだ!」とイライラが募る。
私は正直、少し驚いた。敬虔なクリスチャンであれば、施しが報われようが報われなかろうが優しい自分であり続けるのでは?それでは報われることを期待した行為ということになってしまう。それは他者承認を求める行為であって、あくまでも心のベクトルは自分ばかりを向いていて敬虔なクリスチャンの姿とは思えない。
4nessコーピングでは「他者承認を求めた行為は裏切られる」という話をよくする。例えば、認められたい思いが強くあって、相手の期待に応えようとしているのか、それとも、自分が自らやりたくてやっているのかでは結果が変わってくる。
コニュニケーションとはよくできたもので、口でなんと言おうが心根が伝わるものだ。自分の身に置き換えてちょっと想像してほしい。例えば、「自分のことを思って優しくしてくれる」のと、「どう?私、優しいでしょ?」といった優しさの自己アピールなのかは何となくだがわかってしまわないだろうか。そういった心のベクトルが相手を向いているか、自分の方を向いているかは伝わるもので、自己アピールの場合は同じ感謝でも随分軽くなってしまわないだろうか。
受講生が怒りを抱えている相手のことを丁寧に聞くと、その人物はどう考えても失礼な人だった。となると、なぜ失礼な人に優しくしたのかがわからない。世間には成熟した大人もいれば未成熟な大人もいるように、人はメンタリティーのレベルにバラつきがあるのが事実だ。例えば、気楽に話ができる、気が合うので長く付き合いたいと感じる人や、発言にピリピリしておかないといけない、気が合わないのであまり付き合いたくない人といった具合に、付き合う人は自分で選ぶ必要がある。自分が接する人には誰にでも丁寧に接したいと思うなら尚のことだ。誰とでも仲良く!と言われて私たちは育つが、大人になったら友達100人を追い求める必要はない。
なぜなら、付き合う人は面積が決まっていて、広く付き合えば浅くなるし、深く付き合おうと思えば狭くなるのが普通なんだ。あなたがどういった付き合い方を望むかに寄って決めるんだ。
では、受講生は失礼な人に対してなぜ優しくしたのだろう。イライラしているどころかその出来事が頭から離れず、受講生は苦しむのに。イライラの詳細を訪ねていくと「私がわざわざ下手に出て我慢して、せっかく手を差し伸べたのに…」という言葉が出てきた。こういったことはパターンとして受講生の人生に繰り返し起こっているか尋ねるとどうもそうらしい。繰り返し起こる現実には緩めるべき自己認知(セルフのB)がある。投影図でたどると、人と接するときはどんな相手にでも優しくする→それが人の道→優しくされたらどんな状態であっても感謝で返すべきだと出てきた。
彼が考える人の道に外れた人だからこそ、イライラが消えなかったんだ。さらに深めると、どんな状況であってもそれが男としての生き方だと出てきた。受講生のセルフのBは「男はいつも強くあるべきだ」で、それが出来ないのはダメだと思い込んでいたんだ。
だからこそ、自分はどんな状況でも相手に与え、与えられたら感謝で返していたのに…与えたものが好意に受け取ってもらえないことで、自分を男としてダメだと感じていた。怒りの裏には悲しみがある。与えたのに受け取ってもらえない悲しさと、そんなことをいちいち悔やむ自分を自分で責めてイライラしていたんだ。
受講生は強さや愛がシャンパンタワーであることを知らなかった。自分を愛していない人は他者も愛せないように、自分も守れないのに他者は守れない。自分を満たしたものが溢れて周りを満たしていくんだ。まずは自分を本当の意味で大切にして初めて、周りを大切にできるようになる。
受講生の自己認知(セルフのB)には、「男としてどうなんだろう?」と自分を危ぶんでいるところがあった。だから、機会があれば「男として」を確認していたんだ。優しく接したのではなく、受講生が自分の男っぷりを確認するための相手だったということになる。そりゃ、うまくいくはずはない。コミュニケーションは男を図る道具ではない。相手だって何となく目的が自分じゃないことを気づいていたのかもしれない。加えて、男っぷりの確認には、自分が接したい人に接するより、より難しい相手に挑みたくなる。難しい人が仮に成功すれば男をより感じられるから。。。人間関係がこじれる根っこが露呈した。
Beingレベルでは「男として自分を危ぶんでいること」が課題で、そういった、決して男らしいとは言えない思いを持ちづづけている自分だということに直面化する必要がある。この事実を目の当たりにして受講生は「俺、女々しいのかも…」とぼそっと言った。good!女々しんだよ!それでいいじゃないか。女々しさを隠しながら男らしいふりして生きるより、女々しいと言える男の方がどれだけ男らしいか!
深く納得した受講生は、講座に来た時よりもうーんと堂々と男らしく帰っていった。
「相手のために犠牲になってまで優しくする」ことはないことはない。いや、ある。が、それは自らそうしたいといった選択の元に行われなければ、恨みごとを感じるだけだ。「何かを確認するため」か「自らそうしたくてしているのか」の違いは、行為の後にはっきりする。例えば、「お礼を言われなくてもやりたい」「相手に気づかれなくてもやりたい」「報酬が伴わなくてもやりたい」ものであればそれは自ら選択したと言えるだろう。
さて、あなたの行為の心のベクトルはどっちを向いているだろう?