言えました!ちゃんと言えました!
と嬉しい報告をしてくれた30代の受講生は、仕事での失敗を認めることができるようになった。
以前の受講生は、間違いがあっても笑ってうやむやにする手段しか知らなかった。そんな受講生が間違いを犯した際、「そういった目的だったんですね。私は全く理解していませんでした。」と言えた。
失敗をうやむやにすることは社会人として決して望まれる態度では無い。受講生も頭ではこの態度はマズイとわかっていたからこそ、講座の中で話題に出してくれたのだけど、そこを深めていくと出てきたのは「孤独」への不安だった。
間違っていることを認めてしまうと、仕事が「出来ない」ヤツと思われてしまい、孤独になってしまうという思い込みを持っていたんだ。受講生の行動の目的は孤独の回避であって、そのための手段が失敗を「笑ってうやむやにする」だったということになる。
そんなこと思う?と感じる方も少なくないかもしれないが、こういった誤った認知を持っている社会人は決して少なくない。「なぜ、素直に謝らないのだろう?」「調子いいヤツだ」「安定感に欠ける」と感じる社会人が懸念しているのはこの受講生が感じていた「孤独」であることは多い。世代にかかわらず「孤独」を恐れ、「孤独」にならないように意識しすぎて返って「孤独」になってしまうケースだ。
目的が孤独の回避であるならば、「孤独」について一度考えてみる必要がある。受講生にとって「孤独」とは一体、どういうことを言っているのだろう。このブログを読んでいるあなたにとって「孤独」とはどういうことなのだろう?一緒に考えてみたいと思う。
「ひとり」と「孤独」の違いは何だと思う?
「ひとり」になりたくて「ひとり」になった時間は「孤独」とは言わない。しかし、「ひとり」になりたくないのに「ひとり」になってしまった時間は「孤独」という。「ひとり」と「孤独」の違いは、自ら選んだ「ひとり」の時間か、望んでないのに「ひとり」にさせられた時間かの違いだ。
だからこそ、「ひとり」の「孤独」より、集団の中での「ひとり」の方がより「孤独」を感じる。
私たちは誰かと接することなしに生きていけない生き物であり、生涯誰かと接しながら生きていくと同時に、一人で生まれ、最後は一人で死んでいくといった常に「ひとり」という存在でもある。だからこそ、人との深い繋がりを求め、深いつながりに喜びを感じる。
誰しも人との繋がりを求め、孤独を回避したいと願うが、孤独を恐れるあまり自分が立つことなく、もしくは自分を曲げてまで誰かとの繋がりを求めてしまうことがあるとすれば、それは己が脆弱だからだ。孤独を恐れる人は自分の存在が希薄だと感じている可能性が高く、人との繋がりで自分の存在を確認しようとしている。
繋がろうとする手段は人それぞれで、今回の受講生の場合は、失敗することにより繋がりを切られることを恐れた行為だと思われる。
あるケースだと、幼少期に失敗した際、母や父が「そんなことをするならもう知らない」や「ちゃんと出来ないなんてうちの子じゃない」など、関係性を切る脅しによって子どもを教育しようとしたことなどが理由として考えられる。
しかし、それは誰にでもある幼少期の出来事であって、もう充分大人になった私たちはそれを理由に今を台無しにする必要はなく、親の価値基準を棚卸し、自分の価値基準を構築していかなければならない。
この受講生の場合、「失敗に対する認知」と「孤独を恐れている自分への対処」のふたつのことを考えなければならない。
1、失敗に対する認知
失敗を「笑ってうやむやにする」ことは孤独の回避にはならないどころか、大人としてどうだろう。失敗は自分の価値を落とすもの、成功の反対が失敗だと誤解している。成功の反対は失敗ではなく、何もしないことだ。ただの一度も失敗したことなく成功した人はいない。大概の成功者は多くの失敗談を語れるものだ。成功は失敗の延長線上にしかない。何度も失敗し、試行錯誤して精度を上げていくことなく、成功することはないんだ。つまり、早く成功しようと思ったら早く失敗を重ねることが一番の近道になる。(誤解ないように書いておくが、失敗すれば成功するわけじゃない。成功者はこれならやれるはず!と成功と信じながらやって失敗し、どこがだめだったんだ?と振り返ってはまたチャレンジしては失敗することを繰り返して、考えた失敗をしながら成功に向かっていく)だから、失敗を回避しているといつまでも成功しないということになり、成功の反対は何も行動しないこととなる。
2、孤独を恐れている自分への対処
孤独を恐れているんだとbeingを意識できたら、次はdoing。対処を考えなければならない。なぜ、孤独を恐れているかの原因がdoingのヒントとなる。
孤独とは自ら選んだ一人の時間ではなく、そうなってしまった一人の時間で、人といることで自分の存在を確認しようとしていることだと書いた。そうだと仮定したら、自分の存在を確認する別の手段が必要となる。いつもいつも自分の存在を確認できる他者など宛にできないし、いない。そんな関係性が成り立つとすればそれは『依存関係』というのだと思う。弊社が構築しようとしている『健全な共依存』とは全く違う。『健全な共依存』とは己が確立したもの同士が、一点で接している状態であるなら、世に言う『依存関係』は互いの域を犯しあっている関係性だといえる。
自分の存在が希薄と感じていて「孤独」を恐れているのだから、自分の存在を磐石にしていく必要がある。自分の存在を盤石に感じられるようにするには自ら選んだ一人の時間をつくり、充実させれるよう働きかけなければならない。「ひとり」の時間と「みんな」との時間のバランスを取っていくようなイメージだ。社会人は仕事場がもっとも大きな「みんな」との時間となるだろうし、「〜会社の私」は自分の存在を社外の人に明確に提示できるものとなる。ただ、自分はどういう人かというのと社名は別だし、同じ会社に勤める社内の人とも違いが不明瞭となる。ここで「ひとり」の時間がとても重要になる。「ひとり」を充実させることは「ひとり」を「孤独」から切り離す。「ひとり」を充実させるには、「自分」を棚卸する必要があって、何をやりたいか、どうありたいか、どう生きたいか、10年後、どうなっていたいか?などの質問に答えていかなければならない。
例えば、10年後は海外で活躍する人になっていたいといった漠然としたもので構わない。海外で活躍するには、英語は必要だろうし、日本の文化を知っておく必要があるし、海外で仕事をすることと活躍することは違うので、活躍できるような特技(?)を身につけておく必要がある。日本文化なら、海外で武道は人気があるし、茶道や華道といったものもそうだし。そもそも日本の歴史を深く知っている必要があるかもしれない。いろいろ考えてみたら興味があることから手をつけてみることだ。
別に将来から逆算しなくても興味があるものがあれば、それで十分だ。ものづくりでもいいし、子どもの頃得意だったものを大人になってやってみることでもいい。出来れば「やった方がいいこと」や「やらなければならない」ことより「したい」ことの方がいい。週末が待ち遠しい!帰宅してからが楽しみ!となるとより良い。仕事以外のことをすることによって、会社以外の人との繋がりをもつ。それは刺激になることも多いし、知らず知らずのうちに染み込んでしまっている勤めている会社の価値観を改めて見直すきっかけになるかもしれない。
みんなでやることもいいが可能であれば、一人で出来ることの方がいい。一人じゃないとできないことだと自ら一人になる時間を切望することになる。これは決して「孤独」とは言わない。ランニングでも散歩でもものづくりでも、一人の時間は自分の思考を深める。豊かさを感じるきっかけとなるはずだ。
最後に
失敗を笑ってうやむやにしたことを誰も責めなかったとしても、失敗を笑ってうやむやにした自分を自分は知っている。そんな自分に尊重感は決して生まれない。失敗は失敗なのだから仕方ない。失敗を潔く認めて、「ごめんなさい。間違いました!次から気をつけます!」と言って間違った行為を改めるだけだ。失敗を認めたからって落ち込む必要もない。失敗せずに生きている人はいない。誰だって失敗する。ただ、失敗した後が大事なんだ。そして、失敗を失敗と認め謝ったら、周りの人がどうするかを注意深く観察してほしい。孤独になるのだろうか?人が離れていくのだろうか?
以前、同じ課題に取り組んだ受講生が言った言葉を今でも新鮮に覚えている。「失敗を認める。責任を取ることは勇気が要りました。今まで回避してきたことだから。でも、やってみたら清々しかった。それに、周りの人が離れていくどころか、優しくなりました。」この「清々しさ」が自己肯定感を伸ばす。やってきてないことをやるには勇気が要るが、チャレンジした見返りは必ずある。失敗自体はあなたの価値を落としたりしない。失敗した後を人は見ている。ぜひ、チャレンジしてみてほしい。