鉄下駄を履いてテニスをしていた

感情の取り扱い事例

いかに自分が大変かを伝えなければならないと思っている人がいる。大変なことが愛情を確認する道具となっているケースだ。

大変さで愛情確認していると、その大変さは日増しに大きくなっていかざるえない。
どんどん大きな大変ごとにならなければ、愛情確認ができなくなるからだ。
こんなに「大変なんだ」ということを伝えることで、相手が共感していくれることが愛情確認の手段となる。

受講生は大変な病気を抱えていた。
朝、起きるのもやっとの中、仕事を続けていた。

講座に受講に来たのも病気がきっかけだった。

話を聞き進めると少しづつ少しづつ、全く大げさでない風で受講生が「どんなに大変か」を語り出していった。

立場にもよるが、年齢が増すほど、指導的立場の人ほどどんなに大変な時でも「これくらい平気さ!」となるべく平素を装いたいものだ。

なのになぜ?
と質問すると、深く考えて黙ってしまった。

新しい思考に出会うと慣れてない脳の部分が活性化されるので人はすぐに考えることができない。沈黙は自分の内に思考が向かっていて、悪くない傾向だ。

優秀な受講生は後日、「私は鉄下駄を履いてテニスをして負けていたのかもしれません。こんなに大変だけど頑張っていると訴えたかったのかも。だから、普通にシューズを履いてテニスをしてみます。」といったメッセージをくれた。

受講生は「こんなに大変な状態」を作り出すために「病」が必要だったと気づいたんだ。もちろん、全ての病気の原因がこういったケースだといっているわけではない。しかし病気にも目的がある場合がある。病院に行っても原因がよくわからず、薬を服用しても治らない場合、心理的なメリットがあると考えてみると有効な場合がある。例えば、疲れているけど休みたいと言えない場合など、熱を出してみたり風邪を引いてみたりして否応無く休むという手段を使う。あくまでも仮説の域を出ないが、仮説で考えることで新たな気づきを得ることもある

「病気になることにメリットがあるとしたら?」と考えてみて損はない。
それに、メリットがあったからと言って自分を責める必要もない。病気という手段しか知らなかったのかもしれないし、その時その人にとっては必要だったはずだ。

そうだとわかったらどうする?の方が大事だ。

愛情を感じるために病気を続ける必要はない。本当の目的を得るために動き出すだけだ。

この場合だと、まず愛情確認が本当に必要かどうかを確認する。
それは自分が自分を「愛される人」と思っているか、「愛されない人」と思っているかに寄るから。自分は愛されない人間だと思っていれば、確認が必要となるが、「自分は愛されない人間だ」というその認識が間違っているかもしれない。

となると、二つのことを考えなければならない。
ひとつ目は、どうなればとても愛されている人間だと自分は感じるのかをリストアップする。書き出してみるとわかるが大概、実現不可能なことを願っていて、それが実現できないから愛されないという歪んだロジックを持っている。

ふたつ目は、現実可能な範囲でどうすれば自分は愛されていることがわかるかだ。
「自分は愛される人間だ」と思っていても、愛されている実感があるのは幸せなことだ。「こんな風に接してくれたら、愛されていることが実感できて私は嬉しい」と直接相手に伝えることが大切になる。

過去、受講生に出した宿題に、『毎日1分、奥様に愛していると言ってもらう』というものがあった。奥様じゃなくても、子どもでも、親でも、友人でも、あなたが大切にされたいと思う人なら誰でもいい。その人に直接お願いをし、毎日言ってもらう。直接お願いをして言ってもらうなんて…と声が聞こえてきそうだが、あなたの本当の望みが愛情を感じることであれば、それが一番早い。本心を伝えないで、あなたは一体何を伝えているんだろう。

「頼んで言われたからってねぇ…」という声も聞こえてきそうだけど、じゃぁ、どうすればあなたは愛情を感じられるんだろう。頼んで毎日やってくれることそのものに十分、愛情が詰まっているじゃないか。

あの手この手をやる前から否定するのは、「愛情を感じるとまずい」といった愛情を感じないメリットが存在する可能性がある。

愛情を感じる脳が育ってないとしたら、育てていくことが大切だ。
自分のために時間を割いてくれる、自分のためにご飯を作ってくれる、自分のために話を聞こうとしてくれる、といった普段、当然と考えているところにも折に触れて意識的に「愛されてる〜!」と実感してゆく必要がある。


ネガティブ思考の反復は、人に辛さを共感してもらうことで他者との結びつきを強化する機能が備わっている
。自分がネガティブな考えでダウンしなくても他者との結びつきを得ることができる。

最後に。
自分が頑張って愛されるのは何かが違う。条件付きの愛だ。愛する人はどんなあなただろうがきっと勝手に愛してくる。「どう在れば愛されるか?!」より、「自分はどう在りたいか?!」に注力することが大事で、そのためには(荒業になるかもしれないが)「無理してまで愛されなくてもいいや!」と完全に開き直ることもひとつの手だ。その際は中途半端じゃなく「完全に」だよ。